再現性を捨てて、土の中にタ・プロームをつくる
昨日は陶芸会だった。
最近、私がつくる陶芸のコンセプトが、少しずつ固まってきた。
それは、仕事をしているときとは正反対の思考で土に向き合うこと。陶芸では、「再現性」にまったくこだわらない。
仕事とは正反対の場所
仕事では、同じ品質を繰り返し生み出せることが強さになる。誰がやっても一定の結果が出るように、手順を整え、数字にし、仕組みにする。再現性がなければ、事業は続かない。
だが、陶芸まで同じ考え方でつくる必要はない。
その日に浮かんだイメージ、そのとき指が選んだ動き、土が偶然見せた歪み。二度と同じ形にならなくてもいい。むしろ、同じものをもう一度つくれないことに価値がある。
技術を軽く考えているわけではない。技術は、感じたものを土へ移すための手段だ。先に完成図を決め、そのとおりに土を従わせるのではなく、土と話しながら形を見つけていく。
電車の中でよみがえったタ・プローム
陶芸会へ向かう電車の中で、ぼんやりと浮かんでいたのはカンボジアの風景だった。

アンコール遺跡群にあるタ・プローム寺院。カンボジアで仕事をしていた頃、ここには何度も足を運んだ。


人が積み上げた石の建造物を、巨大な樹木の根が包み込み、持ち上げ、飲み込んでいく。
壊しているのか。守っているのか。あの景色の前では、どちらとも言い切れない。
人間の人生の短さとはかなさ。そして、それをはるかに超えて続いていく大自然の力。私はあの場所が好きだ。
あの世界観を、土で表現できないだろうか。
電車の中では、まだそれだけだった。形は見えていなかった。
道すがらの木が、形を決めた
陶芸会へ向かう道の途中で、一本の木の幹が目に留まった。


深く裂けた樹皮。何層にも重なった表面。整ってはいない。だが、そこには長い時間を生きてきたものだけが持つ力があった。
タ・プロームで感じた自然の時間と、目の前の幹がつながった。
完成予想図が突然見えたわけではない。ただ、「今日はこの木を土の中に立たせよう」と思った。
二本の筒から始まった
最初につくったのは、平らな土台と二本の筒だった。


この時点では、まだ木でも岩でもない。ただの二本の筒だ。
そこから、片方を幹に見立て、もう片方を崩しながら外側へ回した。切る。押す。重ねる。表面を削り、樹皮のような傷を入れる。
形を整えすぎると、自然の力が消える。だから左右を揃えない。滑らかに直さない。土が少し倒れようとする動きも、そのまま形の中へ残した。
岩の割れ目に立つ古木
試行錯誤の末、形は一つにまとまった。


岩の割れ目の奥に、樹齢を重ねた木の幹がずっしりとたたずんでいる。外側は岩にも、崩れかけた寺院にも見える。内側の筒には、長い時間を耐えた木の表情を刻んだ。
タ・プロームをそのまま小さく再現したものではない。
あの場所で感じた「人の時間」と「自然の時間」を、自分の中を通して土へ移したものだ。
完成は年末
作品は、これからじっくり乾燥させ、素焼きへ進む。その後に釉薬を決め、本焼きをする。
完成は、年末になるだろうか。
土は急がせると割れる。人間の都合では進まない。ここからは、私が形をつくる時間ではなく、土が自分の形に落ち着いていく時間だ。
まだ存在しない完成を、先に見る
最後に、AIで花を挿した完成イメージをつくってもらった。

もちろん、実際の焼き上がりがこのとおりになるとは限らない。釉薬は窯の中で変わり、土も縮み、予想しなかった表情が生まれる。
それでいい。
AIの画像は答えではない。まだ存在しない未来を一度見てみるための、仮の窓だ。実物がこの画像を裏切ったとき、そこに陶芸のおもしろさがある。
仕事では、再現性をつくる。陶芸では、その日にしか生まれない一回性を守る。
正反対に見えるが、どちらも私にとって必要な時間なのだと思う。
同じものは、もう二度とつくれない。だから、この一つがある。
年末、窯から出てきた姿を見たとき、この作品の続きを書く。