会社がくれないもの
第1章 会社の道具と、自分の道具

30年以上前、私が初めて就職したのは、コンサルタント会社だった。
当時のパソコンは、MS-DOSで動いていた。今の若い人には、想像もつかないだろう。ワープロに毛が生えたような文書ソフト。表計算ソフトはあったが、途中で本当に合っているのか不安になり、電卓で確かめながら使っていた。今の環境から振り返れば、とんでもない世界だ。
その会社では、社員はみな、会社が支給したパソコンを使っていた。それが当たり前だった。
だが、私は、自分の金でパソコンを買った。東芝のダイナブック、MS-DOS仕様。決して安い買い物ではなかった。
なぜ、支給されているのに、自分で買ったのか。
理由は、はっきりしている。会社のパソコンは、会社の仕事をするための道具だ。だが、私が本当に身につけたかったのは、会社の仕事のやり方ではなく、自分自身の力だった。そのための道具は、自分で持たなければ意味がない、と思った。
本当に突き詰めたいものに必要な道具は、自分で買う。この頃から、私はそういう流儀でいた。
第2章 世界が広がる音

その後、インターネットが台頭してきた。私は、IBMのアプティバというデスクトップパソコンを買った。結婚したての頃だ。決して余裕のある家計ではなかったはずだが、妻は笑顔で了承してくれた。あの時の顔を、今でも覚えている。
当時のインターネットは、ダイヤルアップ回線といって、電話線につないで使うものだった。しかも従量課金。つないで、調べたいことを調べ、すぐに切断する。またつないで、また切る。その繰り返しだった。今思えば、笑ってしまうような環境だが、あの頃の私には、世界が広がる音がしていた。
会社は、仕事を遂行するための道具は与えてくれる。それは当然だ。
しかし、自分を高めてくれる道具は、普通、用意してくれない。会社にその義務はないし、そもそも「あなたが何を突き詰めたいのか」を、会社が知るはずもない。
だから、自分で買う。それが、私の流儀になった。
第3章 道具は渡せても、成長は渡せない

今、世の中には不景気感が漂っている。次の道を模索している若者が多い。いや、若者だけではない。中年も同じだ。将来が見えず、足元が不安定な人が、あちこちにいる。
そんな時代に、「自分を高める道具は、自分で用意しろ」と言うのは、少し酷なような気もしている。私が若かった頃とは、状況が違う。使える金も、時間も、精神的な余裕も、当時とは事情が異なるだろう。
だから、私は、自分ができる範囲で、道具を用意したいと思っている。人を預かる立場になった今、それは自分の役割の1つだと考えている。
しかし、そこから先は、別の話だ。
用意された道具を使って、自分自身を伸ばしていくかどうか。それは、本人次第だ。ここまで面倒を見ることはできない。道具は渡せるが、その道具で何を作るかは、渡された側が決めることだ。
自分自身を伸ばすことまで、他人に頼るのは違うと思う。最近、そこを混同している若い人が、増えてきた気がする。環境を整えてもらうことと、自分が伸びることは、別のことだ。前者は誰かが助けてくれるかもしれないが、後者は、自分にしかできない。
私が若い頃、会社がパソコンを支給してくれたのは、ありがたいことだった。だが、それを使って何を身につけるかは、誰も教えてくれなかった。だから、自分の金で、自分の道具を買った。あの選択は、今の自分を作った選択の1つだったと、はっきり言える。
第4章 技術が取り戻してくれた時間

AIをはじめとした技術の進化は、本当にすごい。
初めてパソコンを買った日の夜、私は、自分がとんでもない量の仕事をこなしていると思っていた。誇らしかった。夜中まで画面に向かって、電卓を叩いて、あれで最先端のつもりだった。
だが、今はどうだ。あの頃より、100倍以上の仕事量を、はるかに短い時間でこなしている感覚がある。技術の進化のおかげで、1つひとつの仕事の精度も速度も、比べものにならないほど上がった。
面白いのは、ここからだ。
100倍こなしているにもかかわらず、私は、また音楽制作を始める時間を作れている。効率が上がった分を、さらに仕事で埋めるのではなく、若い頃に手放したものを取り戻すことに使えている。これは、技術の進化がくれた、思いがけない贈り物だ。
その音楽制作の環境も、ここ数年で劇的に変わった。かつては専門的な機材と知識がなければ手も出せなかった領域が、今は驚くほど身近になっている。
そういう変化を、面白がる余裕が、少しだけ出てきた。
第5章 道具を相棒に変えるもの

そして今、私の手元にあるのは、これまで自分で選び、自分で揃えてきた、正真正銘、自分の道具たちだ。
会社から支給されたものではない。誰かに用意してもらったものでもない。自分が「これを突き詰めたい」と思った、その時々に、自分の判断で手に入れてきたものだ。
それらが今、よき相棒として、私を助けてくれている。
30年前、あのダイナブックを買った時の自分は、こんな未来を想像していなかった。ただ、目の前のことを本気で身につけたくて、自分の金を出しただけだ。
だが、その積み重ねが、今の自分を作っている。
道具は、買った瞬間には、ただの物だ。それを相棒に変えるのは、使い込んだ時間と、本気度でしかない。